日本の国家資格に留まらず、世界50ヵ国以上で認知されているオーストラリア国家資格をも取得する施術家。
長年の医療現場での臨床経験から『BMKメソッド』を開発しその技術は全国に広がっている。
全国でのセミナー講師、カリスマ施術家としても注目を集める中、更なる研究の為に海外の州立大学医学部にて人体解剖実習を重ねている。セミナー受講者は延3,000人以上。
その活躍は日本に留まらず、オーストラリア・ハワイでもセミナーを開催し手技・技術の展開に尽力している。
また、日本においてオーストラリア国家資格の技術評価官、及び認定本部講師として、 治療家・セラピストの技術と質そして、地位の向上と維持を資格の普及活動を通して力を注いでいる。
医療系資格
- 国際ライセンス:Diploma of Remedial Massage(オーストラリア国家資格:世界50ヶ国以上で認知されている国家資格)
- 日本国家資格:鍼師・灸師、あんま・マサージ・指圧師、柔道整復師、登録販売者(2,3類医薬品)
- 心理カウンセラー、コミュニケ―ション能力1級、心理アロマセラピスト
- その他:整体・骨格調整、オステオパシー、カイロ、ロミロミ、リンパマサージ・・・
等々の多種技術を学ぶ。
全国の治療院・サロンに広がる「姿勢・骨格-内臓機能-心」が変わる手技セラピー『BMKメソッド』の創始者。
全国の治療家・施術者の講師として日本国内だけでなく海外へと普及活動を行っている。
分類(接骨・整骨院と病院は別になります。)
(1)接骨・整骨院…柔道整復師(手による施術がメイン)
(2)治療院…鍼灸・マッサージでの治療メイン。
(1+2)灸整骨院…上記の両方合わせたもの。当然両方の資格を持っている時。
(3)病院…医師(検査(レントゲン等も)・薬・手術がメイン)
履歴
理工学部機械工学科卒
理建築設備の会社に勤務。4年
28歳、脱サラ
親の猛反対、勤務先の会社社長にも止められる。
(2時間の社長室での説得。家への手書きの数十枚に及ぶ手紙・・・一応、若手の社員の中でも数年で結果を出し、今後の期待を受けていました。)
医療系専門学生29歳~6年間。
学生中に、整形外科、スポーツクラブ勤務。
29歳からの異業種にて再出発。最短での習得の為、週7日労働。
医療の世界に入るにあたり、日本において「西洋医学」こそ、すばらしい進んだ医学。
まずここをしっかりと学ぼうと病院勤務を決意。
(この時代は、マッサージ感覚の接骨院に勤務する人が多かった。)
- 平日・・・昼、週3日クリニックと、週3日スポーツクラブインストラクター、時々夕方空いた時間には在宅にて高齢者の施術
~夜は国家資格取得の為専門学校。
- 日曜日・・・スポーツクラブ勤務
- 複数の病院を診るため2年スパンで(スカウト移動等もあり)、クリニックを3カ所にて勤務。
リハビリ室勤務。骨折、脱臼の整復(ほねつぎ)、包帯固定処置、リハビリマッサージ、その他、さまざまな疼痛(腰、頚はじめあらゆる痛み。ヘルニア、五十肩、神経症状…等も)治療。
いろいろな医師と患者様との出会い。
その中で、西洋医学の限界。手での治療、東洋医学の可能性、役割、「手当て」の重要性に気付く。
父親の死
学生2年目の夏
- パーキンソン病発覚
当時は、病気が世で発見されてまだ日が浅く、現在でも日本では難病(患者数の少なさと症状の重症度、長期の療養が必要なため、治療薬が高額。発病の詳細メカニズムは不明で、治療方法も未確立。)特定疾患に指定されている。
根本的な治療法は2012年現在まだ確立していないが、対症的療法 (症状を緩和するための治療法) は数十年にわたって研究・発展しており、予後の延長やQOLの向上につながっている。
主な症状は安静時の振戦 (手足のふるえ)、筋強剛 (手足の曲げ伸ばしが固くなる)、無動・動作緩慢などの運動症状だが、様々な全身症状・精神症状も合併する、進行性の病気。 - 当時は、専門医も日本にあまり居なく月に1回の診察。
- 自分が働いていたスポーツクラブに入会させる。プールのウォーキング中心のリハビリ兼ねた運動を行わせる。
- だるさ、倦怠感を訴える父に、「動かさないと運動機能がどんどん落ちる。」「病気に負けるな。気持ち次第だ。」と父親を叱る(発破をかける)日々。
- 辛かった父親。便秘、妊婦・栄養失調の子供のような異常なお腹のふくらみ。
→担当医は月1回の診察で、訴えに対し、薬を出すのみ。
「他にやりようがない」と。
倦怠感、今の症状は、“パーキンソン病と大量に飲む薬の副作用”。
- どんな診察が行われていたのか?
- 身体に触れて診ていたのか・・・?
- 父…私と真逆の無口。
ヘビースモーカー、町工場の3K(「きつい(Kitsui)」「汚い(Kitanai)」「危険(Kiken)」)で働き数十年働く。
- 倦怠感悪化。
家で寝込むようになった父に「パーキンソン病に負けるな!」と叱る。
- 突然の緊急入院。
月1回の診察時に緊急入院となる。
- がん。全身転位、余命1ヶ月。
MRI画像にて説明も、「肝臓の9割が、がん細胞に侵されている。」
- 病院への看護体制への不満。
助からない人への、冷たい看護。動けない、倦怠感で食事もとれない父を食堂で一人取り残し…等。
- 入院1週間後にそのまま、死。(64歳)
最後は両手で、父の顔を包み・・・
そのまま私の手の中で父は息を引き取る。
父から、一粒の涙がこぼれる・・・。 - 開業
学校卒業と同時に、勤務していた救急病院の50mの距離で鍼灸整骨を独立開業。
ケガなどの外傷の処置、地域で在宅、往診医療に回る。
元勤務していた病院では、整形ドクターの不在時にケガの処置等を担当し、
病院と提携しながら地域医療に励む。いっぽう、開業した治療院では、病院勤務時代には聞かれない、患者様からの
病院(西洋医学)への不満。
「2時間待ち5分診療」、「数字を見て、患者を診ない。」「患者の顔を見ない。目すら合わせない。」「話を聞いてくれない。」「医者の態度が偉そう」「上から目線」・・・等を多々聞く。 - 全国の施術家に「BMK美健整体」(医療現場の経験から生まれた、治療と美容に伝える姿勢矯正)として発表。
- 技術習得セミナー開催。
1日20万円の高額セミナーにもかかわらず、定員オーバー。
現在は3クールで全国150人以上が受講。 - 技術者向けDVDの発売。200枚販売で成功のところ、現在約1600枚発売と記録を更新中。
- 発表から1年後(H25.3月)、一般社団法人の立上げとなる。
2ヶ月で協会会員は全国で約100院(治療院・サロン)
- その後、BMK美骨盤矯正、BMKリラクセラピー、BMKケアセラピー(高齢者用)等々・・・新しい技術の開発を進める。
- 現在は、治療の最前線の現場からはほぼ離れ、全国でBMKの技術を伝えるため。
そして、
大澤と関わった、全国の整骨院・治療院・サロンの先生方が繁栄するため。
「手当て・手仕事」のこの業界が繁栄するため。
全国の治療院の院長先生、スタッフ、施術家、セラピストに対してセミナーで「BMKの技術」を伝える活動を行っている。
『医療ミス?』
治療はまだ、発見されたばかりの難病「パーキンソン病」の担当の医師に委ねる。
父の訴える、倦怠感やつらい症状も、「パーキンソン病だから」「薬の副作用です。」
と、全てかき消される。
医師の言葉を信じるしかなく日が進み数年・・・。
ある日突然の緊急入院の知らせ。
入院当日に全身がん転移、余命1か月以内の宣告。
・・・入院1週間後の死。
学生の私自信の知識の未熟さ、何もできない自分・・・。
悔しさに、
その後、医療をしっかり学ぼうと、病院勤務の中で、
整骨師の範囲の枠を超えるXP、MRI等の画像診断や数々の診察を無理やり立ち合い、見学し、病院の医師等に必死に聞きまわり学ぶ。
*鍼灸の東洋医学、マッサージなどの手での処置=「手当て」の重要性を痛感する。
私たちの仕事とは、「手での治療、ふれあい、心のを治していく、心の治療、人との関わり・・・」の中で成り立つものだ。と痛切に感じる。(自分では分かっていたつもり。であったが・・・)
姉の死
数年後、突然の
結婚し離れていた姉(42)の乳がん発覚。
発覚時:腫瘍4cm・ステージ3(4段階中、進行がん)
発見時に腫瘍4cmとかなりの進行がん。
抗がん剤の副作用とがんの疼痛に苦しみながらの闘病生活。
手当て(手でさする)とその時は痛みが和らぐ。
脳への転移で、痴呆のような症状が進む。
医師からは、「何もなすすべはないので、本人の好きにさせてあげてください。」
点滴を刺したまま、本人の好きだった、群馬の田舎に連れ出す。
子供の頃の従姉妹との再会。
半月は、病院に泊まり込み病室で一緒に寝泊り。
・・・2人の子供を残し、
夜中に私と子供の目の前で他界。
治療院は、最短で繁栄。すぐに込み合う治療院に。
人を雇うが、院長の自分の身が忙しくなる。
他のスタッフは暇に。
学生同期で右腕として手伝ってくれていたスタッフも、治療家としてのプライドから、その差の焼きもち。
「大澤院長の前座、盛り上げ役ではない!」等。
流行れば、流行るほど、技術の差、患者の人気の偏りにて、身体は忙しく、
スタッフとの関係は開く一方。
スタッフも、徐々に離れ、新規入れ替え。
ある日、
「あなたは、全国でも素晴らしい物を持っているのですから、しっかりアウトプットして下さい!」
とある、コンサルタントに言われ、自分の手技を体系化。
「自分の技術を、再現性(他の人にもできる)の有る形で、アウトプット」
BMK整体の誕生。
(*BMK(Body Make & Keep)の略)